[第2話]近代新潟県政のパイオニア 県令・永山盛輝
現在の知事にあたる新潟県第3代県令永山盛輝は、旧鹿児島藩士として活躍した後、国の役人として各県の要職を歴任し、新潟県令に着任しました。
永山盛輝(『新潟県議会史:明治篇一』より)
県令在任期間は、明治8年(1875)から18年(1885)まで約10年の長期にわたるものでしたが、この間に様々な行政整備を進めました。前任地である長野県松本市の開智学校などを手がけていることから、「教育県令」と称されるほど、特に学校の設立・整備に力を注ぎ、明治9年(1876)に新潟学校(当時の中等教育の中心校)を英語教育から産業教育へと切り替えました。同年には佐渡相川県を統合し、東蒲原郡を除く全県を一つにまとめました。また、明治13年(1880)の新潟大火後に新潟市東中通1番町に念願の新県庁舎を移転し、明治16年(1883)には当時としては珍しい洋風建築の県会議事堂(現在の新潟県政記念館)が落成しました(ちなみに、現存する全国唯一の明治時代の府県会議場です)。
【新潟県令永山盛輝書(二行)幅】(請求記号E9511)
「馬ヲ御スルノ法ハ策ヲ錯ルニ非ザレバ能ハズ
人ヲ馭スルノ道ハ天ニ教ヘラルルニ非ザレバ得ズ」
上の資料にみられるように、書のほか歌にも優れ、一方では藩士時代に腕が立ったことからか槍の名人ともいわれていたようです。
永山県令が新たな行政の基礎をつくり、近代都市新潟を発展させたことは、今日の新潟を語る上で外せないことのひとつです。
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